劇場版 ポケットモンスター キミにきめた 雑記

 こんばんは、氷堂みきです。

最近はエグゼイドの最終回が面白かったり、いろいろと楽しいことが多くてテンションが高く、なにか文章を書きたい気分になりました。

なので今日は、「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」について、僕が思う事について、いろいろと書きたいと思います。

当然ですが、ネタバレ注意。また、一部ちゃんと調べずに書いてしまっている部分もあるので、ソースが不確かかもしれませんがそれもご容赦頂きたいです。結構今回(も?)独自解釈が入っているかもしれないので、それも苦手な人はゴメンね。


キミにきめた!スペシャル映像


【公式】2017ポケモン映画プロモーション映像(#キミにきめた)


『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』TVCM(60秒)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕がこの映画を観たのは、8月の半ばでした。世が夏休みムード全開の中でテストに追われていた僕は、ようやく解放されて、この映画を見に行くことが出来ました。

本当はテスト期間だろうがなんだろうが、一刻も早くこの映画を見に行きたかったのでず。

が、学友たちとテストが終わったらその記念に皆で見に行こうと約束していたので、一人抜け駆けして見に行くわけにもいかず、お預けを言い渡された駄犬のように待つしかありませんでした。

このとき、あまりにも観に行きたい気持ちが強すぎて、ネタバレ覚悟で掲示板の感想スレを見に行ったりもしました。

その中で、今回の映画にシリーズ当初に脚本・構想を担当していた首藤剛士氏のプロットが採用されていると知り、芋づる式に彼の「ポケモン最終回」や「幻の劇場版第3作」に関しても調べたりしてました。

これが僕のこの映画に対する見方を大きく変えることになるとは、その時はまだ思ってもみませんでした。

 

 そんな中、テストも無事終わりいよいよ約束の日を迎えました。

僕はエグゼイドとキュウレンジャーの映画を観てから友と合流しました。

キッズに囲まれながらマーシャドーをしっかりと受け取り、いよいよ映画がスタートしたのです。

 

 そして観たポケモン20周年の映画。この映画は、僕にとっても最高のポケモン映画でした。

結果として、首藤剛士氏の構想について調べていたことが功を奏しました。

僕に普通に観ていただけではしないような見方をさせてくれて、自分の人生とポケモンとの関係を照らし出してくれたのです。

 

 僕がなにより感動し、涙を流してしまったのが闇に堕ちかけたサトシがマーシャドーによって悪夢を見せられるシーンです。

サトシが見た悪夢の中では、ポケモンのいない世界で生きるサトシ達の姿が描かれています。

ポケモンと共に冒険するのではなく、普通に小学校に通い、ありふれた都会の風景の中で生活するサトシ達。

夢の中で、サトシはうっすらと自分の横を走る黄色い相棒がいたことを思い出します。

しかし、その記憶はあまりに曖昧で、サトシはかつての自分のパートナーの名前すら思い出すことが出来ません。

 

 前述の首藤剛士氏の構想では、ポケモンの物語は「自己存在への疑い」や「ポケモンと人間は共存できるのか」というストーリーから「他者との共存」をテーマとして描くことになっていたようです。

これには、首藤氏の「子供たちがいつか「ポケモン」から離れ、他者との共存を目指して現実世界を歩んでほしい」という思いが込められていたようです。

もちろん、この構想は世界中で愛されるコンテンツとして発展した現在の「ポケモン」にとって、受け入れられるものではないと思います。

(寧ろ、Pokemon GOなどの爆発的な流行などを見れば、ポケモンというコンテンツは首藤氏の構想からどんどん離れていってるのではないかという気すらしてきます。)

 

 しかし、僕はこれまでに「ポケモン」というコンテンツが歩んできた道のりには価値があると思います。

時代と共に変化を重ねながら、少年たちにポケットから広がりをみせる冒険へいざない、時に心をつないできたポケモンの偉大さは計り知れないです。

そんなポケモンが、20周年という一つの節目において、かつてあったかもしれない構想を引っ張り出してきてまで伝えたかったことは何なのでしょうか。

 

 僕は、このシーンは昔はポケモンと一緒に歩んでいた、かつての少年たちにむけて描かれたシーンではないかと思います。

僕自身、今は少年と呼ばれる年齢だったころほどの熱意をもって「ポケモン」に向き合う事がなくなってきていると感じます。

年を取るにつれて、背負わなければいけない責任が増え、社会に適合するために少しずつ自分自身が変わることを求められる、もしくは求めることが多くなってきました。

そんな日々の中で、ポケモンと一緒に冒険した少年のころの記憶が少しずつ、気づかないうちに薄れていっていたように思います。(この映画を観るまで、そんなことを考える事もありませんでしたが)

そんな少年でなくなりつつある、あるいはなくなってしまった「オトナ」たちの心に、このシーンは訴えかけているのではないでしょうか。

「貴方にもいたはずだ。ともに旅し、冒険の日々を傍らで駆け抜けたポケモンの存在が」と―。

 

 つまり、マーシャドーの夢に出てきたサトシは、「オトナ」になった僕らと重ね合わされる存在ではないかと思ったのです。

劇場で夢の中のサトシと自分の姿を重ねてしまった僕は、そこでボロボロと号泣してしまったわけです。

(こんなに泣いたのはプリキュアドリームスターズで一度離ればなれになる運命を背負ったみらリコが目を見合わせるシーンで感極まったとき以来だと思います。)

 

 映画では、その後ピカチュウと心を通わせたサトシが、もう一度復活してマーシャドーに認められ、ホウオウとバトルをして、再び旅に出るところで幕を閉じます。

ポケモンたちの攻撃を受けて、再びマーシャドーの夢の世界の中に入ったサトシは、かつて自分の隣を走っていた、ピカチュウという一番の友達の存在を思い出します。

そして、こう叫ぶのです。

「そうだ、こいつはずっと俺の隣を走ってたんだ!」

このシーンで、僕はまたはっとなりました。

確かに、僕は「オトナ」になるにつれて、ポケモンたちのことを意識しなくなっていました。

しかし、だからといってポケモンというコンテンツがなくなったわけではありません。

そして、思い出があれば、何かきっかけさえあれば、いつでもポケモンは僕らのそばに姿を現してくれるのではないでしょうか。

昨年Pokemon GOが流行してプレイした際には、近所の公園がまるでトキワの森と化したかのような感覚に陥りました。

そして、今回の映画でも、ここまでの記述のようにかつて自分がポケモンと共に生きる少年だったことを彷彿とさせてくれます。

ポケモンというコンテンツに触れる機会さえあれば、僕らは成長した「オトナ」でありながら、あのころのような「少年」に戻ることが出来るのではないでしょうか。

そういった点で、今回の映画はこれまでの映画の中ではひと際異才を放つ、もはや別枠としてとらえるべき作品なのではないかと思います。

 

 ポケモンというコンテンツが生き続けるという事は、僕らに思い出を想起させてくれるだけではありません。

ポケモンは、今なおこの時代に生きる少年たちの横を駆け抜けています。

そして、今回の映画では、ひとつの劇場にぼくたち「かつての少年」と「現在の少年」が一緒にサトシの冒険を観て、そのわくわくした気持ちを共有することが出来ます。

ポケモンと一緒に過ごした時間を持つ人たちみんなが同じ目線に立って今一度はじめの一歩を思い出すことが出来る。

これもまたこの映画の魅力ではないでしょうか。

 

 さて、すっかり長くなってしまいましたが、今回僕が伝えたかったのは、「キミにきめた」という映画は、かつてポケモンを愛していて、今は卒業してしまったという人にこそ観てほしい映画だという事です。

まだ9月いっぱいまでは上映している映画館も多いと思うので、該当している人はぜひ観に行って欲しいと思います。

そして、できれば感想とかブログとかの文章にまとめてほしいです。

もし書いたら教えてください。読みに行くので。

 

 

 最近バイタリティ高い感じがするのでこの調子が続けばまた何か記事を書きたいと思います。

 では、またお会いしましょう。

 

 

 

 *参考にした文献

dic.pixiv.net